前回のインタビュー「『HIGH(er)magazine』誕生前夜。編集長のharu.が10代を回想」では、haru.さんの発信活動の原体験に迫った。
第2回では、あまり語られることのなかった、創作活動とは直接関係しない、中高時代の青春を振り返ってもらった。
自由な結婚観、中学時代から
10代を振り返るために、中学校時代について質問すると、その前提として、少し珍しい経歴を説明してくれた。
「わたし、小4を2回、中3を2回やってるんですよ。4月始まりの日本と、9月始まりのドイツを行ったり来たりしてたので。自分としては、その人生しか歩んでないので普通なのですが、けっこう驚かれますね。
でも、まわりの人が年下だから子供っぽいとか、そういうことはまったく思わない…。っていうか、考える余裕もありませんでした。わたし自身、自分のことで精一杯だったので」
精一杯だったいちばんの理由は、「帰国子女」というポジションからくるものだそう。
「中学は、埼玉県の普通の公立校だったんですけど、まったく馴染めなかったんです。何かあると、クラスメイトにも先生にも『帰国子女だから』と言われるキャラになってしまっていて。いつも『普通がわからない』って思っていました。
例えば、ドイツに住むおばあちゃんがすごくオシャレで、当時若い子の間で流行っていたカラータイツとかTシャツとかをおばあちゃんが送ってくれたんです。それを制服の下に着て、怒られたりしていました」
そんなharu.さんが、学校で心地よく感じられる時間は、部活動だった。
「『日本文化部』という、実質は何をしてもいい部活で、不思議な人たちの集まり。その中には、今でも連絡をとりあう仲の友人もいます。その子は『僕の心はガラスのハート』が口癖で、恋文を書いたり、ビーズをつくったりしていました。実は憧れている男の子が同じで、一緒に部室の窓から、その子を見たり。青春っぽいですね(笑)。
彼とは、お互いが窮屈に感じる日々の中で励まし合える関係で、『30歳になってお互い相手がいなかったら、恋人は別で探しつつ、結婚しよう』という話をしたくらい。ちなみに私は2020年に事実婚をしましたが、日本の結婚制度については、ずっと疑問を感じています」
中学時代からすでに、「普通」にとらわれない姿勢を持っていたharu.さん。当時はまだ理解されづらかったかもしれないその柔軟な考え方に、時代が追いつきつつありそう。
自分をコントロールすることに必死だった高校時代
そんな中学を卒業する2011年3月。haru.さんは、受験で合格した第一志望の女子校へ進学を予定していた。しかし、東日本大震災が発生。
「家族の判断で、急遽ドイツに渡ることになりました。大小あれど、日本中の誰もが、いろいろなものを失ったり、人生観が変わったりしたと思うのですが、きっとあのとき、日本の女子校に行っていたら、よくも悪くも、まったく違う未来が待っていたはず。自分ではどうしようもない大きな力に、人生が変えられていくこともあると痛感させられたできごとでした」
結果として、ドイツで過ごした高校時代に、人生を変える大きな出会いがあったが(第1回参照)、こんな悩みも経験したそう。
「10代なので、自分の見た目を意識する気持ちも強くあったのですが、日本とドイツで、良いとされる顔や体型、ファッションがまったく違ったことに戸惑いました。ドイツ語もままならない中、自分が誰なのかわからなくなってしまって…。そんな状況で、手っ取り早く自分をコントロールできるのが体重でした。なりたい自分に近づくというより、自分で決めたルールをストイックに守ることに必死になって、摂食障害に近い状態になったことも…。
ある日、ふと『このままではダメだ。私は外国人なんだから、他の人と比べたって仕方がない』と気付いて、周囲の基準を意識しなくなったんです。そそのことで、状況を脱出できました」
「二十歳」は節目と思っていなかった
高校卒業時には二十歳だったharu.さん。「10代」から「20代」にスイッチする「二十歳」について、このように捉えていたそう。
「わたしにとって『二十歳』は、あまり重要な区切りじゃなかったですね。成人式にも行かなかったですし。
今は30歳が近づいてきていて、少し意識しています。いろいろな仕事をさせてもらえたからこそ、下の世代に何かを伝えていかなきゃいけない立場になっているな、とか。
だから、二十歳という区切りを意識するあまり、焦ってしまったり、傷付いたりする人がいたら、その必要はないんじゃないかな、と思います」
自身のほろ苦い思い出も語っていただき、等身大の言葉で10代へのメッセージを語ってくださったharu.さん。次回は、「今の10代に伝えたいこと」を掘り下げて聞いてみた。
Photo:Aoi
Text:Takeshi Koh